「なりたい自分」実現ブログ

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こんにちは!

ブログ「看護師のストレス解消・自分探し研究室」
を運営している元看護師、
ガイアエネルギーワーカーの富永菜桜子です。

私は、私自身の「自分探しの旅」から得た数々の叡智を統合し、
エネルギーワークを活用したセッションを提供しています。

なぜ看護師という安定した職を辞して、
ガイアエネルギーワーカーとしての道を歩み出したのか…

そこには様々な苦悩と葛藤がありました。
そのストーリをこちらでシェアしたいと思います。

あなたのストレス解消・自分探しのヒントとなることを願って…。

長い文章ですが、最後まで読んでいただきましたら幸いです。

 

今世での課題 魂の進化のために自分で選んだ傷

<受胎~出生時  拒絶による傷(スキソイド)>

当然生まれた当時のことは覚えていません。
しかし退行催眠のようなワークをした時
はっきりイメージできた風景があります。

それは誕生直後のこと。
私は初めて、光り輝くまぶしさの中に放り出され、
無影灯をバックにした数人のマスクをした大人に見下ろされています。

逆光で分かりにくいのですが、
怒ったような顔をして私のことを見ているように感じます。

生まれたばかりの私はこの状況がとても恐ろしく、
「なんてところに来てしまったんだ」と後悔しています…。

これが私の原風景です。

祝福されている感じが全くなく、拒絶されている感じが強く蘇ってきます。

時に、必要以上に自分の存在を小さくし、
あるいは自分の存在感を消してしまう癖は
ここからきているのかもしれません。

 

<0歳~2歳くらい 見捨てによる傷(オーラル)>

母親が働いていたため、産休が明けると、
仕事の間私は母親の実家に預けられました。

ここでも私は傷を作ります。母親から切り離された傷です。
子供の私からすれば母親から見捨てられたと思ったことでしょう。

もしかしたら、母親からは拒絶されたと思い
それを引き留めてくれなかった父親から
見捨てられたと感じていたのかもしれません。

いずれにしろ愛情を充分に感じてはいなかったと想像できます。

時を経てさらにこの傷は深まります。
2歳の時に弟が、5歳の時に妹が生まれたからです。

このころになると母親は仕事を辞めていましたので、下の子といつも一緒にいます。
私は二人きりになりたくても絶対になれません。
うらやましいかったし、悲しかった。
私は、二度、三度と、母親から切り離されたのです。

いつも、「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」という決め台詞で片付けられます。

気を引くには、ふざけたりして困らせる事ぐらいしかありませんでした。
でもそうすると、物凄く怒られます。

だから、母親の言うことを聞いて「いいお姉ちゃん」でいることを覚えました。

でも心の中ではものすごく母親を欲し、依存していました。

 

<2~3歳くらい 侮辱による傷(マゾキスト)>

さて、私は早生まれなこともあり、
おっとりとした(動作が遅い)でもちょっと頑固な子供でした。

時は第二次ベビーブーム。近所にも何人か同級生がいます。
私は一軒隣の女の子といつも比較されていました。
その子は4月生まれで、私は3月生まれ。
成長期の子供ですからこの約一年の差はとても大きいです。

さらに、もともとおっとりした性格の私は、いつも母親を焦らせていました。
そして待つことができずに手を出し、私の動作を手伝ってしまっていました。
いえ、母親がすべて行っていました。
私はなすがまま
でした。

でも一方で、こうすることで母親の関心を惹いてもいました。

この傾向は幼児期だけに留まりません。
大人になるまで、さらには大人になってからも続きます。

例えば小学校の時は、宿題を母親に見せると必ずダメだしされて、
全てやり直させられていました。
挙句の果てには、私の創り出した要素はもはや何もない
完全なる母親の作品が出来上がり、それを提出させられたものです。

それが「普通」だと思っていました。
私の創り出すものはダメなんだ…、私はダメなんだ…と思っていました。
私の創造性は育まれることはありませんでした。

やりたいことをやろうとすると母親から必ず怒られ、
無かったことにされていました。

言いたいことがきちんと言えず、ずっと大人しい子、
口数の少ない子、面白みのない子で過ごしました。
いつも母親の意志通りに動いてきました。

 

<幼少期 裏切りによる傷(サイコパス)>

これは父親との関係性におけるエピソードです。
小学校高学年の時、一家で食料の買い出しのため
近所のスーパーマーケットに行きました。

もう10才でしたので私は一人別行動を取りました。
自分の好きな雑貨や本などを見ていたのです。
その日はなぜか夢中になってしまい、気が付くと随分時間が経っていました。

いつもは遅くなれば探しに来てくれるのにそれもありません。
あれっと思い、急いで店中探し回りました。どこにもいません。
あわてて駐車場を見に行きました。車がありませんでした。

「置いて行かれた!」もうパニックです。
自分が悪いのは分かっていました。
でもなんで探しに来てくれなかったのか。
館内放送で呼び出すこともできるのにそれもなかった。

なんで? なんで? 

泣きながらどうすればいいのか考え、仕方なく泣きながら歩いて帰りました。

歩けない距離ではありませんでした。
でも置いて行かれたショックは半端ではありませんでした。

私を置いて帰ると決定したのは父親でした。
単に待っていられなかっただけです。
そして母親も下の子供を抱えて自由に動けず、同意するしかなかった。

私は二人に裏切られた気持ちになりました。
探しに来てくれるはず…そんな信頼を裏切られたのです。

これ以降私は買い物に付き合わなくなり、
自分の買い物は決して父親と一緒には行かなくなりました。

 

<思春期 不正による傷(リジット)>

我が家は、世間の問題にはあまり関心がありません。
家族内にも深刻な問題はないかのように、
表面的なことだけ取り繕って過ごしてきました。
というより、問題があっても真剣に向き合うという姿勢がない
と言った方が正しいかもしれません。

「きっと誰かが何とかしてくれる」
「周りの言うとおりにしていけば問題なく過ごしていける」

いつもそういう空気が流れていました。

世間のルールを守り、地域の行事に参加して、
周りの迷惑にならないようにしました。

いかに正しいか・適切であるかを重要視して
それを実行してしました。

「〇〇したい(want)」ではなく
「〇〇すべき(should)」で生きてきました。

周りの人の期待に応え、完璧に行動することで、
自分の存在価値を見出し、安心感を得ていました。

 

こうして、たくさんの傷を抱えた「私」という人格が出来上がりました。

まとめるとこんな感じです…

 周りの目を怖がり、時に自分の存在を消すことで自分を守る。
 時に周りの人全てを権威として見て、
 人の言うことが正しいことだと信じ、それに従う。
 本当は構ってほしいのにそれを口に出して言えず、
 誰かが何かやってくれるのを待っている。

 

私の元々持っている性質

さてここからは、現在に至るまでのプロセスを辿ります。

今まで書いてきたように
私は周りの意見に従うことで自分を守ってきました。
しかし、そんな中でも自分の個性はちゃんと発揮していました。

私は、小学校ではトランペット鼓隊、
中学から高校まではテニス部に所属していたのですが、
自らそれがしたくて入ったわけではなく、
友達が入るから自分も…といった具合で入部しました。

ですが、途中で放り出すといったことは一度もなく、
最後まで辛抱強くやり遂げています。
コツコツ続ける 留まり続ける これは私の強みの様です。

進路を決める時にも少し個性が垣間見えます。
相変わらず周りの意見に左右され、
先輩や同級生に看護師志望者が多かったことから
看護学校進学が視界に入ってきます。

母親から、
これからは女でも手に職をつけないと生きていけない…
と言われたことも後押ししました。

時はバブル真っ只中です。
高校生の就職も引く手あまたな時代でした。
でもどうしても一般企業に勤めて、
事務作業をやっているイメージが湧きませんでした。

「毎日同じことするの退屈だなー」
「人と関われば毎日同じことの繰り返し…なんてことにはならないな」
「それに、人に必要とされて役に立つ仕事だし」

そんな風に感じたことを覚えています。

ここに人と関わることがしたいという私の情熱のかけらが顔を覗かせます。

でも、その時には積極的な動機として自覚してはいませんでした。

 

看護学生時代は、学生という中途半端なポジションがたまらなく嫌でした。
一人前でないのに一人前のように振る舞わされて、
あげく、奈落の底に突き落とされる感じです。

従わなければいけない人が何人もいました。
(担当患者・担当看護師・担当教官・医師など)
時々その人たちの言うことが違ってきます。
誰に従えばいいのかパニックに陥りました。

今までのように、最後には「母親」や「学校の先生」に従えばいい
というモデルが通用しなくなったのです。

このころから少しずつ真実を見極めようとするアンテナが立ち始めます。

 

卒業後、私は近くの大学病院に勤め始めます。
最初に配属されたのは、皮膚科と泌尿器科の混合病棟。

いつものパターンで周りの意見に左右され、
何もできないという思いからおどおどしながらも
コツコツ経験を積み重ねます。

病棟には大きな手術をした患者様のために
生活指導のパンフレットがありました。

それが私にはとても分かりにくいと感じていたので、
頼まれもしないのに作り直したことがありました。
自分が患者様に説明できないから、やらずにはいられなかったのです。

同じようなことは、勤務移動で次に配属されたICUでも続きます。

先輩から教えられることは難しくて理解できないし、
当時はマニュアルもほとんどまとまっていなかったので
説明されることや申し送られることが全く頭に入ってきません。

当時は、その人の経験や看護レベルに完全に依存して業務が行われていました。

「これでは分からない」

そう思った私は、
先輩方が手分けしてまとめたマニュアルの土台にして
新たに自分で情報を集めそれを整理して、
一人でICUマニュアルをまとめ上げてしまっていました。

まだあります。

急変がいつ起きても不思議でない病棟なのに、
急変時に使う物品がバラバラしていてまとまっていませんでした。

これでは新人・新配属者には
いざという時何をどうしたらいいのか全く分かりません。
パニックになるだけです。
それは患者様を命の危険にさらす機会を増やすことになります。

「これはおかしい…」

そう思って、物品台帳をまとめ、
病棟にある物品の整理整頓までほぼ一人でやっていました。
誰にやれと言われたわけでもないのに、自然にやってしまうのです。

いつでも必要な情報や物が、必要な時にすぐに引き出せるよう
基本的な環境を整えること 

これも私の強みのようです。

 

燃え尽き症候群の始まり

さて、勤務していた大学病院では、
だいたい4年間隔で配置転換があるのが普通でした。

でも私はICUに約10年間在籍することになります。

10年の間で私は、
救急の場面に必要なスキルはほぼ身につけていました。
そして自信もついていました。

こうして病棟で古株になっていくと、
いろいろなものが目に付き始めます。

中でも気になり始めたのは、周りのスタッフの仕事への姿勢でした。

命が大事のはずなのに、
そのためにするべきルールをおざなりにするスタッフが多いのです。

「何でやるべきことをやらないのだろう?」

私はイライラして過ごすことが多くなりました。

私の場合イライラの対象はたいてい医師に対してでした。
もちろん上司や先輩、病院の上層部に対してもありました。

サラリーマン化しているのでしょうか、
自分の持ち場の作業が終われば後は知らんぷりといった感じです。
私は一人で怒り、声を荒げることも何度もありました。
医師には「怖い看護師」で通っていました。

完全に抑圧投影の世界です。
 自分は気を付けてルールを守っている(抑圧)のに、
 それをしていない人を見てイライラする(投影)
 そしてヒステリックになって声を荒げる(攻撃)

もちろん、ただ現場で喚き散らすだけでなく、
冷静に医師の上層部にも進言しました。

でも何も変わりませんでした。私の声は全く聴いてもらえません。

看護師がそれをやれば怒るのに
医師同士だとなあなあになって誰も何も言わないのです。

特にリーダーなどをやると怒りはピークです。
興奮して仮眠もとれません。
日勤をやって、眠れずそのまま深夜に突入…
なんてことも日常茶飯事です。

心も体も疲れが全く取れませんでした。

「何かが間違っている…」「こんなの絶対おかしい…」 

でも何が間違っているのか当時の私には全く分かりません。

日々感じるイライラも全く処理されず、
ただ鬱憤が溜まっていくばかりでした。

身体の疲れもなかなか取れず、休日はほとんど布団の中で過ごし、
なんとか体力を回復させて仕事に向かう
という生活にだんだんなっていきました。

 

決定的なこと

そんな中、「これはもうだめだ、看護師続けられない…」
と思う事態が起きます。
ブログの最初の記事も書いたことです。

その頃のわたしは、
正義感をもっていろいろやっても何も変わらない現実に疲れ、
惰性で仕事を続けていました。
楽しさも失われていきます。

ただ、自分に与えられた業務をそつなくこなして
引き継ぐだけの日々になっていました。

そしてその時が来ました。

受け持った患者に対して怒りが向いてしまったのです。

通常なら日勤で覚醒し、人工呼吸器から離脱させる予定の患者様が、
私の担当した夜勤の終了間際に覚醒した時のこと。

「何でこんな時に目を覚ますのよっ!」
「仕事の段取りが狂っちゃうじゃない!」と心の中で思い、

知らず知らずのうちに患者様をにらみつけていたのです。

すぐに気づいて、気持ちを切り替え、対処はしたのですが…
その時を振り返るといまだにゾッとします。

「看護師として“してはならない行為”をしてしまった…」

自分としてはショックが大きかったのです。

そしてこれを機に、私の看護への情熱は急速に冷め、
モチベーションが失せていきます。

「これからどうしたらいいのか…」 行先が見えなくなり途方に暮れました。

「もう、仕事辞めよう」

コツコツ続けるのが信条の私にとっては大きな決断です。

でも、決意するのにそれほど時間はかかりませんでした。
それほどキツイ状態だったのです。

そうしてその年の年度末、私は大学病院を辞職しました。

 

今から考えればこれは燃え尽き症候群の症状です。
つまり、疲れすぎて体力が無くなり、
感情的にも疲弊して「情緒的消耗」を起こしています。
そして、患者に対する非人間的な対応(脱人格化)、
個人的達成感の低下といった症状が出ていたのです。

私の場合このことをきっかけに仕事を辞める選択ができたので、
ある日突然体が動かなくなるといった重い症状には至りませんでした。

しかし、当時はこれが燃え尽き症候群とも知らず、
一人悩み、迷路にはまり込んでいったのです。

 

「自分探しの旅」の入り口に立つ

さて、病院を辞めたはいいものの、したいこともなく、
ただその日を過ごすだけの日々が続きます。

辞める時、周りの人から「何やるの」「どうするの」と散々聞かれ、
面倒くさいし少し見栄もあって

「海外留学に行く」「看護大学に編入する」「プー太郎を楽しむ」

などなど適当なことを言っていました。

でも言ってしまった手前、何もやらないわけにもいかないだろうと思い、
とりあえず編入学試験に向けて勉強を始めていました。

英語や看護学は学生気分に戻って楽しく勉強できていたのですが、
小論文の練習になった時に躓きました。

志望理由を記さなくてはならなかったからです。

まったく言葉が浮かんできません。当然です。
受験する理由が「大学に編入する」だけだったのですから。
「編入学してから何をやるか…」なんてこと考えもつきませんでした。

そしてはっきりと自覚しました。
「編入学するなんて言ったけど、単に医師と張り合いたかっただけ」
「私のイライラ埋めるには医師にでもならないと無理なんだー」と。

でも、医師になったらすべて解決するのだろうか…と問いかけてみました。
「無理だな」と思いました。
そもそも何が問題なのかもよく分かっていませんでした。

こんな状態で、ずーっとイライラ、モヤモヤした日々を過ごします。

「どうすればいい?」 

こう問い続け、わたしは答えを外に探し始めました。

地に足のついた、この世界の絶対的な真理を知りたい、
「どこかで教えてくれないだろうか」と思うようになったのです。

 

カウンセリング・エネルギーヒーリングを学ぶ

大学病院を辞めて、編入学試験もあきらめ、
やることのなくなった私はとりあえず半年間海外留学に行きます。

それなりに楽しかったのですが、
金銭的な余裕が無くなり、帰国してから再就職しました。

そこでもモヤモヤ・イライラは続きます。

関わる患者様はその多くが寝たきりで動けず、
意志表示もできないといった方々でした。

このような方々を看護しながら、

「私は誰の役に立っているのだろうか?」
「建設的なことができているのだろうか?」

と自問自答するようになります。

こんな状況でも、だまってやるべきことをやっていれば
給料はそれなりにいただけます。

でもお金だけでは何か満たされない不足感…
ただただ自分が浪費されているような虚しさ…
を感じながら仕事をしていました。

そして考え始めます。

「看護って何だろう」 「私のやりたいことって何だろう」

でも全く想像すらできませんでした。
暗闇の中をさまよい歩いている気分でした。

今まで周りの常識だけを真実として生きてきたから無理もありません。

「真実が自分の中にある(答えは自分の中にしかない)」

ということが分からなかったのです。

 

そんな中、今度は上司の対応に腹を立て、またも辞表を提出することになります。

でもそれは、

このまま自分のやりたいこともせず、ただお金のためだけに毎日自分を浪費して仕事を続けるか?
それとも、たとえお金が足りなくなっても、自分のやりたいことをやりたい時にする人生を歩むか?

と自問した結果出した答えでした。

そして私は、それを期に、

 「運命の人」と出会うスピリチュアル・レッスン
 「わたしはわたし!」セルフ・ラブで幸福の扉を開ける15の鍵

などの著者である溝口あゆかさん主催のカウンセラー養成講座を
受けるため3週間のロンドンへの旅に出発します。

 溝口あゆか 公式ホームページ はこちら
 溝口あゆか 公式ブログ はこちら

自分自身と向き合う壮絶な日々の幕開けでした。

ここで私は初めて「自分自身の感情を知ること」の大切さを学びます。

そして1年かけて課題をこなし、
カウンセラーのディプロマ(Integrated Counselor Diploma)
を取得しました。

 

さらに続けて、ヒーリングのバイブルと言われるベストセラー

「光の手」
「癒しの光」 

の著者 バーバラ・ブレナン女史 の主催する
BBSH(Barbara Brennan School of Healing)に入学しました。

BBSHホームページ(英語)はこちら

ヒーラーになることが目的ではありませんでした。
この世界の真理を知りたい、教えてほしい…という一心でした。

このころはまだ、「答えは外にある。誰かが教えてくれる。」
と思っていました。

そして、

「世の中の絶対的に正しいことを知りたい」
「周りの人より優位に立ちたい」

という思いが先に立っていました。

 

さて、こうして始まった私の自分探しの旅ですが、
それまで周りが…周りが…と意識を外に向けて過ごしてきていましたので、
いざ自分に意識を向けようとしても
なかなか思うように自分の中を探れません。

どうしても、他人の目を気にして、他人がどうやっているのか気になって、
自分の中でうごめいている感情を見ることができませんでした。

感情って何だろう…? 本当に分からないのです。 

看護の現場で感情を抑圧してきた結果でした。

 

さて、BBSHではエネルギーワークのスキル獲得と共に
個人的なプロセスワーク(カウンセリング)も行っていきます。

結果、徐々にエネルギーが敏感になっていきました。
そして、これに伴って日常生活にも変化が起き始めます。

母親と対立したり、職場でもめたり…。

中途半端にエネルギーに敏感になり、
洗濯機の中にいるかのような状況に自分を放り込んでいました。

でもそれは、もし大学病院を辞めずに仕事を続けていたら
決して体験できない新たな自分を発見する挑戦でもありました。

こうして激流にもまれながらも、少しずつ経験値は上がっていきます。

権威に対しても自分の条件を伝えられるようになっていきました。

また、現場でショックなことが起こったり、
人間関係でイライラしたりした時でも、
自分を見つめ、理由を探り、そこから自分自身を立て直す…
といったこともできるようになっていきました。

でもまだまだ、完全に日常生活に落とし込むまでには至っていませんでした。

 

卒業そして現在へ

こうして、4年間という年月を費やし、無事BBSHを卒業し、
BHSプラクティショナーとして活動できるようになったわけですが、
卒業すれば即 “お悩み解決” “ピッカピカのバラ色人生” となるわけもなく、
そこからが深い意味での自分と向き合う時間のスタートでした。

スクールという司令塔が無くなり、
自分自身のやりたいことを見つけ、表現するための行動を、
全て自分の責任によってしなければいけません。

「まだ充分じゃない」
「誰か何とかして」
「でもあなたの言う通りにはならない」 

自分の中でたくさんの傷とその防衛が、うごめき、せめぎ合います。

家庭内でも両親との関係性で常に感情を揺さぶられ続け、
その意味を自分に問いかけながら、なんとか消化させる日々が続きます。

この格闘の間、私はさらに様々なスキルを身につけました。

直伝靈氣、インテグレイテッド心理学、
EFT、マトリックス・リインプリンティング  などなど。

そして、それらを使って自己ワークを続け、
また様々なセミナーに参加し、個人セッションを受け、
自分と向き合ってきました。

そんな中でだんだんと、

「ヒーリングとは何か」 「私は何物なのか」 「私は何がしたいのか」

が明確になっていきます。

自分自身に問いかけ、答えを見つけ出す。
また問いかけ、答えを探す。

この繰り返しによってさまざまなスキルが統合されてき、
私の日常生活に溶け込んでいきました。

そしてそれが、ようやくこのブログという形になったのです。

 

まとめ:現時点において私自身が導いた「私の中の真実」

<私の強み>

 物事をコツコツと続ける事:一つ所に留まり続けられます

 本物に対する欲求:常に物事の本質を見極めようとします

 安定感:土台がしっかりしている感じ、グラウンディングの強さがあります

 安心感:包み込むような優しさと相手を待つことのできる忍耐力あります

 整理整頓ができる:バラバラになっていることをまとめて分かりやすく説明します

 

余談ではありますが、実は私の肩書である
「ガイアエネルギーワーカー」の由来もここにあります。

ガイアとは母なる地球のこと 

私の行うエネルギーワークは、
しっかりグラウンディングして地球(ガイア)に繋がり、
地球と調和することで得られるエネルギーを利用して行います。

そして、土台のしっかりした安定感や
包み込むような安心感という私の性質と
ガイアのイメージが重なってこの名が生まれたのです。

 

<私のこれからの課題>

 自分の中にある本質的な「想い」をきちんと相手に伝える事

 自立すること

 完璧主義を手放すこと  

などなど、たくさんたくさん。
まだまだ自分と向き合う時間は続きます。

 

<私が考える看護とは…>

 患者の中に変化を生じさせる関わり。

 人間本来の自然治癒力を引き出すこと、
 そして、その妨げとなるものを取り除き、環境を整えること。

 

<私が考えるヒーリングとは…>

 本当の自分に戻ること。

 本来持っている自然な創造の流れに身を委ねられるように、
 心・身体・エネルギーを整えること。

 ⇒ 私の中での結論  看護=ヒーリングである

 

<私のロンギング(魂が恋い焦がれるもの)は…>

 人とつながりたい(統合すること) 

 人の役に立ちたい

 笑顔に包まれたい   

 本物になりたい

そして…

 「愛」(ポジティブなものの総称)のエネルギーを感じたい

  そのためにも、すべての魂に刻まれた悲しみを癒したい

 

<究極的な願いは…>

 自分の本質で生きる事

 そして、 肉体を持つことでしか経験できないエネルギーの動きをただただ体験したい 

 それが「生きる喜び」であり、「魂の成長」であり、

 人間がこの世に存在する唯一の目的であると思うから…

 

だから…私、富永菜桜子はセッションを提供していきます。

とりわけ、同じ看護師として当時私自身が抱えていた悩みと
同じ悩みを抱えている方の手助けをしたい。

これが今の私の願いです。

 

以上です。
長文、最後までお付き合いいただきありがとうございました。

なお、この文面は新たな気づきや解釈の変更などがありましたら、
随時更新していきたいと考えています。

2015.10月

 

 

 

 

 

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